谷川悛太郎さんの詩集「みんなやわらかい]から五つの詩を選んで、混声合唱とピアノのための曲として作曲しました。自分と自分ではない誰かとの関わりを感じることのできるような歌を書きたいと思って、詩を選びました。タイトルは全部ひらがなでしたが、「あい」ではいきなり「あい」と「愛」が交互に示されて、難問をつきつけられたような気持ちになりました。「あい」「愛」「あい」「愛」・・・。でも、その差異を示すことが問題なのではなく、多様な「あい」をどうイメージできるかということが太切なのだと思います。「くりかえしくりかえし考えること」、「いのちをかけて生きること」、谷川さんの詩は、小さな身近なことから始まって、あっという間に宇宙全体を、歴史すべてを、軽いステップで一跨ぎしてしまうところがすてきです。 「みんなやわらかい」。詩集のタイトルでもあるその詩には、for lssei Miyake ・・と、書かれています。三宅一生氏の作品へのオマージュなのでしょう。詩の構造は、かたち、かたも、かがち、そしていろ、という具合に四つのかたまりになっています。四つめのかたまりのはじめでは、「そうしていろはね…」と、秘密をうちあけられたような気持ちになります。どんなものがたりもちいさなひとつのいろから始まっているのかもしれない、と思えてくる詩です。 「しぬまえにおじいさんのいったこと」も、とても好きな詩で、作曲するのもけばかられる思いがありました。どきどきするフレーズがたくさんあります。「かじりかけのりんご」を残しながら「いいのこすことはなにもない」と言いきることの潔さが、きびしくやさしく胸にひびいてきます。それから「くちずさむうた」と「さびかかった かなづち」・・・。 私は女なので「さびかかった かなづち」の方は持ってないのですが・・・(笑)。それは、闘志とか、反抗精神と言いかえることもできるけれど、やっぱりおじいさんですから、「さびかかった・・・」なのだと、作曲者は確信しています。「わたしの いちばんすきなひとに つたえておくれ」というごとばにも、ドキッとさせられます。それがだれなのか、だれにもわからないのですから。 「さようなら」は、なんとなく気まずい夕方、どこまでもどこまでも歩いていってしまいたいような夕方の気持ち。こどもとおとなのまんなかにいる気持ち。「さようなら」ということばしかそこには存在できないようなさびしい、しかしなつかしい気持ちがえがかれているように感じました。 「きもちのふかみに」には、a song という副題がついています。自分の心の奥に眠っているひとつの歌に出会うためには、きもちのふかみにおりていかなければならない、ということ。ほんの日常のさりげないエピソードからごく自然に誘い、いままで気づかずにいたこころの深い場所を指し示す詩だと思います。はじめのふたつのかたまりは、早く語るようにかけぬけ、後半の三つのかたまりで、ゆっくり静かに、こころの奥の、今まで行ったことのないところまで、おりていってみる・・・。「うたがはじまるまえのしずけさ」というむすびの一行が、とても印象的です。この一行が「きもちのふかみ」とも言うべき場所で響くことを願っています。 |