戻る豊混/西岡と三善晃先生との歴史


豊混以外も含む三善作品のすべての演奏履歴はこちら

演奏会
演奏曲
資料
1985年
第25回定期
小さな目
 
1986年
第26回定期
地球へのバラード
 
1987年
第27回定期
嫁ぐ娘に
 
1988年
第28回定期
交響詩「海」
 
1989年
第29回定期
五つの願い
メッセージ
1990年
第30回定期
ぼく
メッセージ
1991年
第31回定期
縄文連祷
メッセージ
1992年
第32回定期
あなた
メッセージ
1993年
第33回定期
あさくら讃歌
メッセージ
1994年
第34回定期
伝説 ・・・ 委嘱初演

メッセージ

レッスン風景

1995年
第35回定期
愛の歌
 
1996年
第36回定期(東京公演)

伝説 ・・・ 委嘱再演 (朗読:三善晃)

メッセージ
1996年
第36回定期(大阪公演)
伝説 ・・・ 委嘱再演
 
1999年
第39回定期
宇宙への手紙
 
2000年
第40回定期
路標のうた(創価男声との共演)
 
2001年
第41回定期
日本の四季(豊中少年少女、池田ジュニアとの共演)
 
2001年
池田子どもフェスティバル
日本の四季(豊中少年少女、池田ジュニアとの共演)
 
2002年
全日本合唱コンクール
蜜蜂と鯨たちに捧げる譚詩 より さまよえるエストニア人・・・金賞
 
2003年
第43回定期
蜜蜂と鯨たちに捧げる譚詩  二群の合唱とピアノのための
 
2004年
第44回定期
葉っぱのフレディ(豊中少年少女との共演)
メッセージ
2005年
Tokyo Cantat
地球へのバラード(谷川俊太郎氏との共演)
 
2005年
第45回定期
地球へのバラード
 
2007年
第47回定期
島根のわらべ歌(豊中少年少女との共演)
 
2009年
第49回定期
その日 - August 6 -  、生きる 、木とともに人とともに
 

豊中混声合唱団 創立60年記念誌に寄稿してくださった文

 《共鳴する絆》

三善  晃

  豊中混声合唱団の歴史が60年と聞いて、驚いた。発足が昭和16年といえば、第2次世界大戦の始まった年。私は(早生まれだから)小学校3年生だった。あの頃、いわゆる洋楽をやることが次第に窮屈になり始めていたことを、自分の体験として覚えている。よくもあんな時代に
新しい合唱団を結成できたものだ。豊中高女の樫本という先生を中心に上野音楽学校の出身者たちが集まったというが、思えばあんな時代だったからこそ合唱を歌いたかったのだろうと、胸が熱くなる。(私なんか、それから3年後の集団疎開先では、半年に童謡を1曲しか書けなかった。疎開する前は毎週1曲は書いていたのに)。

 豊中混声60年の年譜を見ると、現在は音楽監督の須賀敬一さんが初めて指揮をなさったのが発足以来20年も経った昭和37年とある。須賀さんこそ「豊混」の代名詞のような存在で、生みの親・育ての親だと私は思っていたのだが。でも、それはそうだ、とも思う。なにしろ団は6
0歳。それを生み育てるには須賀さんのご年齢はチト若すぎる。とはいえ、初指揮からだってもう40年。須賀さんは、生みの、ではないにしても、育ての親の名にはまさに相応しい。

 その関西の名門「豊混」の名に私が親しみ始めたのは昭和50年代からだが、特に強く精神的な絆を感じるようになったのは、現常任指揮者の西岡茂樹さんが指揮者として登場した昭和60年からだ。西岡さんが、ほとんど毎回の定期に私の作品を採り上げて下さっていることもあるが、本質的には西岡さんの「音楽」への共感・共鳴が、私を「豊混」に結び付ける。

 緻密で深く、自然で謙虚。誠実で奥行きのある思惟。それらの音楽的資質の底に、愛が豊かに流れ…西岡さんの「音楽」を言葉で表現することは難しいが、これらは西岡さんの人柄についても言えることだろう。愛が創りだす優しさだ。だが同時に、苦悩から祈りまでの夥し
い痛みが西岡さんの華奢な身体を貫いていることも、私は思わずにいられない。

 平成6年、豊中混声は私の《伝説》を初演してくれた。西岡さんを通じての委嘱で、12声部の混声に男女の語りも付く作品だが、豊中混声は西岡茂樹指揮・須賀敬一(男声)語りという総力挙げての演奏で、会田綱雄の生と死の凄絶な輪廻を見事な音象として描出してくれた。

 忘れられないあの初演から7年が過ぎた。「豊混60年・おめでとう」と祝いながら、須賀さん西岡さんはじめ、歴年の皆さんに出会えた幸せと数々の名演に心から感謝したい。

2002年発行 豊中混声合唱団60年史 より

戻る