寺嶋陸也作曲「水になった若者の歌」

大阪大学混声合唱団第49回定期演奏会のチラシ

大阪大学混声合唱団第49回定期演奏会の写真

2007年12月16日 尼崎アルカイックホール


プログラムノート

寺嶋陸也

 ヨーロッパ人がたどり着き、そこをインドだと思ったところから誤って「インディアン」や「インディオ」と呼ばれるようになったアメリカ大陸の先住民族には、多様な文化があり、ヨーロッパや、ヨーロッパから渡ってきた人たちが建国したアメリカの人たちとはかなり異なった価値観をもっている。
 彼らが信仰し、敬い、あるいは畏れていたもののなかには、たとえば水や火、そして雷や雨などのあらゆる自然現象が含まれている。自然とともに生きる彼らの生活観や思想は、おそらく私たち日本人が古代にはもっていたはずのものと共通であろう。近年その力の猛威を私たちに容赦なく見せつけている自然を支配できると驕り、多様な価値観を認めずに殺し合いをしたりして自分勝手に生きている現代の人類にとって、彼らの口承詩は大切なメッセージを伝えてくれている。
 《水になった若者の歌》の中心となるのは、第2曲から第4曲までの「水になった若者の詩」である。この詩はアメリカ西部のマウンテン・アパッチ族に伝わる水のシャーマンになった若者の歌であるとされ、物語の形式をとっている。この物語への導入として、同じくアメリカ西部のピマ族の「饗宴の歌」を置き、カナダ北西部のシムシアン族の「子守唄」をエピローグとして、全体は5曲からなる組曲となっている。

 

シアターピース「水になった若者の歌」・・・チラシ原稿

客演指揮:西岡茂樹

「アメリカ・インディアンの口承詩〜魔法としての言葉〜」という一冊の本がある。文学者の金関寿夫氏がインディアン(ネイティブ・アメリカン)の口承詩を翻訳されたものである。一読しただけで圧倒され、胸が熱くなり、そして近代文明により私たちが失ったものの大きさを痛感させられる。アメリカの覇権がグローバライゼーションという波で世界を覆いつつある今、まさにその足元に、かくも豊饒な生命力に漲った世界観が息づいているとは、なんと皮肉なことだろう。寺嶋陸也さんは、この本の中から「水」のシャーマンになった若者の物語を中心に据えて、一幕のシアターピースを作曲された。文字を持たない彼らの口承詩は、寺嶋さんの音楽の力によって、その始原の姿を垣間見せてくれる。昨年の定期で演奏した柴田南雄作曲「無限廣野」に続く阪混シアターピース第2段。言葉と音と身体表現の美しい合一を目指して。慶應義塾大学楽友会の2004年度委嘱曲であり、今回が関西初演。乞うご期待!

 

寺嶋音楽により始原の姿をみせるインディアンの口承詩・・・プログラムノート              

西岡茂樹

  《水になった若者の歌》は、慶應義塾大学混声合唱団楽友会の委嘱により作曲され、2004年に初演、続いて2005年には作曲者自身の指揮により、シアターピース形式で再演されている。
 私は再演の方を東京まで聴きに行ったのであるが、ちょうどその数年前、寺嶋さん作曲の同系列の合唱曲《夜明け〜アメリカ大陸先住民の詩による〜》を指揮していたので、とても興味深く聴いた。いずれの曲も上述の寺嶋さんのノートにあるような思想が底流に流れ、それを滋養として、色とりどりの花がその上に美しく咲いていた。
 そして、再演を聴いた私は、この価値ある作品を、是非、関西の合唱界にも紹介したいと思ったが、この度、阪大混声の諸君の賛意を得て、ようやくそれが実現する運びとなった。
さて、曲の意図や内容については寺嶋さんのノートで語り尽くされているが、敢えて補足するならば、文学者の金関寿夫氏の偉業をあげねばならないだろう。
 かつて、インディアン(近年は、ネイティブ・アメリカンと呼ばれることが多いが…)は文字を持たなかったため、すべては口承により共有され、伝承されていく。その言葉とは、今日、私たちが使っている言葉とは比べものにならないほどの「大きな力」を持っていた。それは、金関氏の言葉を借りると「魔法としての言葉」であった。それがやがて欧米人に見いだされて英語に翻訳され、さらにそれが金関氏に見いだされ、素晴らしい日本語訳になって初めて、私たち日本人に大きな衝撃を与えたのである。
 金関氏は、その訳詞の危険性も十分、承知しておられる。著作の中で、“もとの詩が本来持っている呪術的な性格のことを考えると、そういうふうに記録され、印刷された「作品」−静止したもの−が、それがはじめに持っていたもの−動的なもの−を、はたしてどれだけ伝えているか、まことに怪しいものである。つまり理想をいうなら、それを聴いたり読んだりするものは、部族、ないしその共同体の全員が持つ「神話」を彼らと共有していなければならない”と書いておられる。
 つまり最初から文字として記された詩の訳詞とは根本的に性格が異なると言うのである。しかし、それでもなお、訳詞して日本人に伝えたかったというのが金関氏の思いだったのだろう。
その葛藤を、私は寺嶋さんの作曲が埋めていると思う。彼らの口承詩は、寺嶋さんの音楽の力によって、その始原の姿を垣間見せてくれる。合唱によるシアターピースという芸術表現がそれへのアプローチを可能にしていると思う。
 さて、インディアンの哀史は、決して過去のアメリカの歴史として片づけることはできない。近現代における歴史の数々のアナロジーがそれを物語っている。今宵のステージが、西欧そしてアメリカの覇権(日本も荷担しているかも…)がもたらした地球の危機的状況の逆さ鏡として、皆様の心に哀しいまでの美しさと高貴さでもって響くことを祈っている。
 また、今宵の演奏は、やはりシアターピース形式での上演とした。楽譜を送ってもらったところ、演出に関することが全く記されていなかったので、寺嶋さんにお聞きしたら、「どうぞご自由にやってください」とのこと。そこで、学生諸君からもアイデアを頂きながら、慶應とは異なる“阪大バージョン”の演出をつけさせていただいた。昨年に続く阪大混声シアターピース第2弾、どうぞ最後まで、ごゆっくりお楽しみ下さい。