みなまた

「水俣病」が公式発見されたのは1956年のことである。にもかかわらず、被害はその後も拡大し続けた。日本は高度経済成長期に入り、重化学工業の発展のためには零細漁業を切り捨て、人命を軽視し続けた。さらに悲劇的だったことは、被害者と加害者が同じ地域に暮らしていたため、激しい住民対立を引き起こしたことである。その結果、水俣の自然と社会は壊滅的に破壊された。


その後、40年近く経過して1990年代に入り、ようやく事態は好転の兆しを見せ始める。汚染された湾は埋め立てられ、不知火海の魚の水銀値は下がり、1997年に出された安全宣言により水俣湾内の魚を外海と隔離するための仕切網も撤去された。自然界はゆっくりではあるが確実に修復されつつある。これに対して、地域社会の修復は人間の複雑な感情が絡み合い、容易には進まなかった。そこで人々が始めたのが「もやい直し」という運動である。まず、対立する市民が同じ場に集まって話し合い、お互いの状況を知ることから、もつれた糸を解きほぐそうとし始めた。合唱曲「みなまた」が誕生したのも、ちょうどそんな時期にあたる。 「自然界においても人間界においても、再生しつつある水俣を知ってほしい」との市民の願いを巨匠・柴田南雄先生が受けとめられ、純子夫人の構成に基づき、合唱曲「みなまた」は1992年11月に誕生した。


曲は3部から構成される。
第1部「海」は、水俣出身の文学者、徳富蘆花(1868 - 1927)の「自然と人生」および本居宣長の「古事記伝」をテキストとし、悲劇が起こる以前、水俣は美しい海や自然に抱かれ、人々は自然に生かされながら豊かな歴史をつくってきたことが歌われる。
第2部「浜の唄」は、水俣の浜に伝わる4種の民謡旋律によるコラージュであり、人々の生き生きとした生活感情が歌われる。
第3部「淵上毛銭の四つの詩」は、やはり水俣出身の詩人、淵上毛銭(1915 - 1950)の詩をテキストとしている。淵上毛銭は、結核性関節炎を患い、35才で世を去っている。長い闘病生活の中から生まれた詩は、生と死が交錯しながらも不思議な透明感と凛とした抒情に満ちている。


このように、合唱曲「みなまた」では、水俣病そのものは直接的には歌われない。美しい海と、そこに美しく生きようとする人々の姿が歌われている。しかし、その美しさへの焦がれの対極として、水俣の悲劇が音楽の底流として流れている。そして、さらに作曲者はこう述べている。
“「水俣−川の出会うところ−」という美しい地名が、世紀の公害病と結びついて世界に知られるようになったのは、じつに不幸なことだ。しかし、水俣病は一つの地方、一つの国だけの問題ではない。全曲の結びの言葉である「明日という日がたしかに約束され」るために、われわれは何をしたらよいのか、合唱曲「みなまた」を歌われる合唱団の一人一人に考えていただきたい。”


 柴田先生の言葉どおり、その後も世界は同じ過ちを繰り返し続けている。未来を担う子供達(池田ジュニア、豊中少年少女)と共に展開されるこのシアターピースが、演奏者と聴衆の双方の心に、約束された未来をもたらすための勇気を湧き起こしてくれることを祈りたい。