「空に小鳥がいなくなった日」 一柳 慧 この曲では谷川俊太郎さんの詩集「空に小鳥がいなくなった日」の中の「憤りと哀しみのソネット」から「幸せ1」と、「朝のかたち」から「朝」、そして「私が歌う理由」から「空に小鳥がいなくなった日」の3つの詩を使わせていただいた。
私は近作の合唱曲で、詩の内容や雰囲気に対して、純粋に音の面からもアプローチしたいと思い、合唱と共演する独奏楽器を用いてきた。石垣りん「詩の中の風景」ではチェロに、大岡 信「朝の頒歌」では笙に、その役割を担わせたが、今回はクラリネットを共演の対象とした。
曲はAllegro、Moderato−Allegro、Andanteから成る。激しい感情を内に秘めた詩の静かな佇いと繊細な感性、そのやさしさや哀しさや痛みやユーモアが少しでも音楽に投影できていればこの上ない喜びである。
「一柳作品による新たな音宇宙への出立」 西岡 茂樹 「空に小鳥がいなくなった日」は東京混声合唱団の委嘱曲であり、1995年3月20日、田中信昭氏の指揮で初演されている。 「空に小鳥が・・・」の前作にあたる「詩の中の風景」を混声合唱団ローレル・エコーで初演した時、ひどく驚嘆したことがある。 まず第一に、一柳氏の音が、これまでと随分、趣を異にしていたことである。 ジョン・ケージの音楽を日本に紹介して以降、日本の音楽界の前衛シーンを歩き続けて来られた氏のハードな作風は、これまでの合唱曲においても生きていた。「子供の十字軍」(ブレヒト詩)、「光の砦、風の城」(大岡信詩)を経験していた私は、「詩の中の風景」の最初の楽譜が届いた時、当然、その延長線上の譜面を予想した。ところが、そこにはこれまで見たことのない氏の音楽世界が書き記されていたのである。 もちろん研ぎ澄まされた氏特有の感性はいささかも揺るいではいなかったが、それまでの無調をベースにした作風から、随分と調性感を導入した作風へと大きく転換していた。しかし、それは決して「調性への回帰」(回帰に傍点)ではなく、「新しい調性の次元への飛翔」とでも言うべきものであり、それを支えているのが、氏の人間に対する限りない愛であるように私は感じた。 第二に、「詩の中の風景」では、チェロとの共演という斬新なアンサンブル形態が、詩の内容と音楽の姿に実にマッチしていたということである。 チェロの音楽は人間の歌とまことに良く絡み合い、詩の音楽的表現にまさにぴったりであった。 この2点は、ほぼ同時期に「新しいうたを創る会」から委嘱したソプラノとマリンバのための「私の歌」などにおいても、強く印象づけられ、以降、私は氏の作品への傾倒を強めたように記憶している。 今回の「空に小鳥が・・・」は東混の委嘱ということもあり、多少、難渋な顔つきもしているが、やはり前述の大きな流れの中にあると感じる。 さて、21世紀を迎えた今、人もまた地球上の自然界と生態系の大きな秩序のなかで生きていくことがあらためて強く求められている。何度も警鐘を鳴らされながらも、髪振り乱して走り抜けた20世紀を、今こそ清算しなければならないだろう。 1楽章の「幸せ」では、文明がもたらした薄っぺらい幸せに対する警鐘が、2楽章の「朝」では、人もまた地球上の生命体の一種であることへの覚醒のプロセスが、3楽章の「空に小鳥が・・・」では、現代文明を盲信する人類に対する厳しい告発が歌われる。 合唱と共演する楽器としてはクラリネットが抜擢されているが、これまた見事な「はまり役」であり、歌と縦横に絡みあいながら激烈なドラマをつくっている。 豊中混声としては初の一柳作品によるステージであり、新しい世紀のスタートを飾る定演にそれが実現したことは大きな喜びである。 |