朝のリレー 

信長貴富作曲


2012年7月7日(土) 同志社コールフリューゲル サマーコンサート プログラム原稿

≪朝のリレー≫に寄せて

西岡茂樹

 「あさ」そして「ゆう」と題された二冊の詩画集がある。吉村和敏氏の美しい写真に、谷川俊太郎氏の詩が散りばめられたもので、もちろん、「あさ」は「朝」にちなんだ写真と詩、「ゆう」は「夕」にちなんだ写真と詩である。  混声合唱組曲「朝のリレー」は、この「あさ」に収録されている詩の中から信長貴富氏が4編を選んで作曲されたものである。企画・制作は、教育芸術社、2006年に東京外国語大学混声合唱団コール・ソレイユによって初演されている。

 谷川氏は、本の後書きで、こう言っている。 「よがあけて、あさがくるっていうのは、あたりまえのようでいて、じつは、すごくすてきなこと」  確かにそうだ。もし世界が、ずっと陽が照っているだけ、あるいはずっと暗闇だけだったとしたら、なんと人生は味気ないものだろうか。

 地球が太陽の周りを周っていて、地球自身も自ら回転しているから、季節があり、昼と夜がある。宇宙の摂理によって、私たちは、今、こうして毎日、朝を迎え、夕を迎える。そのリズムが私たちの“いのち”のリズムになっている。

 朝の迎え方は、とても様々だ。柔らかい笑顔でベッドの朝を迎える人、夜間の砲撃で崩れたビルの瓦礫の隙間から恐る恐る朝日を覗く人、病院のベッドで新しい命の誕生を家族と共に喜んでいる人、病室で亡くなった家族への惜別に涙する人、今日という日を希望に満ちて迎えた人、今日という日の到来に絶望している人・・・。

 地球に生きる限り、いのちある限り、人々は必ず毎日、新しい朝を迎える。その朝が、いつかすべての人にとって、祝福された新しい出発になることを、谷川氏の詩と信長氏の曲は祈っているように思われてならない。それは、素朴な、しかし強い祈りだ。その意味において、この作品は、地球とそこに生きる人々の“いのち”への讃歌だ。

1.朝のリレー

 組曲のタイトルとなっているこの曲では、流れるような音楽が時を刻み、目覚まし時計のベルの音が聞こえ、地球のあちこちの大陸の朝と夜が、メビウスの帯のように繋がってパノラマのように描写される。様々な国の様々な人々が、朝を次から次へとリレーしていく、という言葉は宇宙からの視座であり、宇宙船の窓からガラス細工のような青い地球を見た時のように、愛しく、感動的だ。

2.朝の祭

 朝は一日の始まり、たいていの家では出勤や登校のために、家族の大騒動が始まる。その様を、谷川氏は実にユーモラス、かつデモーニッシュに描写している。鮮やかな色彩と躍動するリズム。言葉の祝祭は、そのまま音の祝祭へと変貌していく。こんなに痛快な朝を描いた詩人と作曲家は、これまで一人もいなかったに違いない。

3.朝ゆえに

 一転して、静かで穏やかな朝。夜から目覚めた朝ゆえに、私たちの感性はしなやかで透明で優しくなる。「おはよう」という呼びかけから展開していく朝の平穏に、私たちの心は静かで美しく優しい波に満たされていく。

4.美しい夏の朝に

 いきなり『巨人になりたい』と語り始められるこの曲の冒頭を聴いた瞬間、ドキリとする。しかしその言葉が、実は、美しい夏の朝に眼前に広がる山々や雲や青空をその両腕に抱きとりたいという、大自然への果てしない畏敬であり、そして、愛し、憎み、歓喜し、絶望する人々が生きるこの地球をその両腕に抱きしめたいという、人間への限りない愛であることを知った時、私たちは言いようのない深い感動に包まれる。  もし巨人になれないのなら、蔓草が巨大なジャングルの迷路のようにさえ見えるくらいの小さな小さな『一匹の蟻になりたい』とも言う。  それは『巨人になりたい』と同義語だ。何という巨きなスケールの詩と音楽だろうか。

 私たち人類は地球に最後にやってきた生物でありながら、わずか数百年の間に大きな負の遺産を地球に残してしまった。未だ止むことなき戦禍、抜け道が見えない原子力の問題など、数え上げればきりがない。 そんな人間の愚かさ、傲慢さを、毎日、訪れ続ける「朝」がしなやかに溶解してくれないだろうか。「朝」はそんな魔法使いになれないだろうか。そんな切なる願いを抱かせてくれるこの詩曲、地球の未来を担っていく若者たちの好演を期待したい。