祝 須賀先生 喜寿コンサート のプログラムに寄せたメッセージ


須賀敬一先生の“森”に乾杯!

 私が初めて須賀先生とお会いしたのが大阪大学混声合唱団の学生指揮者になった時だから、もうかれこれ三十年以上もずっとお側で合唱人生を送ってきたことになる。私の父とほぼ同い年。もう一人の育ての親なのである。

 当時、須賀先生は四十代半ば。ちょうど脂がのってきた時期だったのだろうか、とにかくすべてに渡り実にエネルギッシュだった。そして、現在の温厚なお姿からは想像も出来ないだろうが、練習では徹底的にしごかれ、烈火の如く怒られる時は本当に恐かった。私はその音楽への燃えあがるような情熱とお人柄の大きさに魅了され、学生時代の一時期は研修生として、また卒業してすぐに豊中混声に入団した。

 私が豊混に入団してしばらくすると、高田三郎先生を定期演奏会の客演指揮にお招きするようになり、それは16年間続いたのだが、その間は高田先生のまさに分身となり、平素の豊混をきめ細かく指導された。毎年、わずか数回の高田先生ご自身の練習だけで、定期演奏会の本番が見事な成功を収めることができたのは、言うまでもなく影武者としての須賀先生の粉骨砕身のご努力あってのことであり、高田先生からの絶大なる信頼があってのことである。

 また、ほぼ時期を同じくして、私を副指揮者として起用してくださり、数年後には定期演奏会の一ステージを任せてくださるようになった。須賀先生は、まだほんのヒヨコの私に対して、楽譜に細かく指揮のポイントを書き込んでくださったり、指揮法の指導をしてくださった。つまり、私のステージをも陰で支えてくださった。

 そして、ご自身はというと、高田先生の作品はもとより、欧米そして日本の現代作品に果敢に取り組まれた。特に、Penderecki、Eben、Part、Bernstein、湯浅譲二、林光などの作品群は、全日本合唱コンクールにおいて演奏され、極めて高い評価を得たが、同時に、日本の合唱界に対しても大きな影響を与えたと思う。

 つまり文字通り、“陰になり日向になり”、豊混のため、そして日本の合唱界のために尽くされた。その間のご苦労たるや、想像を絶するものであったに違いない。しかし、私の記憶には、いつもニコニコして練習場に登場されるお姿の方が圧倒的である。

 私が学生の頃にお会いした時は、とにかく火の玉のように突き進む猛将のイメージだったが、その後の二十年は、むしろ、あちこちの不毛の大地を耕し、種を撒き、水をやり、芽吹いた苗を暑さ寒さから守り、肥料をやり、大きな林をあちこちに育ててこられたという、開拓者のようなイメージの方が強い。

 豊混の音楽監督を辞されたのは今から十年前のことであるが、それを契機として、豊混以外の場でのご活動が増えていった。今は亡き高田先生の最高の伝道師として、全国を飛び回っておられるのだ。

 そして今、二十年間に渡り各地に育ててこられた林がさらに成長し、それらが連なって大きな“森”となりつつある。今日のお祝いコンサートは、まさにその森の豊かさであり、勝利だと思う。大地にしっかりと根をはった様々な木々が、それぞれの色合いの葉を陽光に鮮やかに輝かせ、風が吹くとそれらが触れ合いながら、さわさわと心地よい音を奏でる。それは生命の讃歌であり、須賀先生への讃歌だ。

 須賀先生、喜寿おめでとうございます。
 どうぞ、この森がもっともっと豊に広がっていきますよう、引き続きご指導をお願い申し上げます。

西岡茂樹