1.Rutter合唱曲集

 合唱王国イギリスについては、CDや来日する素晴らしい合唱団の数々の演奏に触れて知っていたが、そのことを痛感させられたのは、大阪の混声合唱団ローレル・エコーと共に1997年にイギリスへ演奏旅行に出かけた時のことであった。ロンドン郊外の田舎町の小さな合唱団と共演したのであるが、若者から老人までのさまざまな年齢層から構成されるアマチュア合唱団であるという彼らの合唱は、それはそれは音楽的に実に素晴らしいものであり、合唱の伝統が日常生活にしっかりと根付いていることに驚嘆させられた。そんなイギリスに存在する、きら星のごとく輝く作品群の中から、今回は、John Rutter (1945 -)の作品を3曲とりあげた。
 Cantate Domino (1991)は、詩編96の一部をテキストにしたものである。曲の全体は英語による歌詞が支配的であるが、曲の冒頭と最後には、詩編の最初の一行である”Cantate Domino canticum novum” (新しい歌を神に歌え)がラテン語で歌われ、さらに途中には、9世紀の司教により書かれた詩と言われている”Veni, creator spiritus”(来れ、創り主なる聖霊)が、グレゴリオ聖歌の旋律をモチーフにしてラテン語で挿入されるという、ひじょうに立体的な構造をしている。神への讃歌が、高らかに堂々とア・カペラで歌い上げられる。
 What sweeter music(1987)は、英国国教会の聖職者であり詩人でもあるRobert Herrick(1591-1674)の詩によるキリストの降誕を喜び祝うキャロル。オルガンの安らかな調べに乗って、甘く美しい旋律が、抑制された声部によって綴られる。
O be joyful in the Lord(1984)は、詩編100をテキストとしている。Cantate Domino同様、神への讃歌であるが、内容はより簡潔かつ明快。リズミカルなオルガン伴奏に乗って、輝かしいばかりの歓声が響き渡る。
 なお、今回の演奏にあたっては、プリンストン大学グリークラブ出身のPeter Fincke氏に英語の発音を指導していただいたが、それがご縁で、本日、バスのメンバーに加わって一緒に歌っていただくこととなった。ここに記して感謝申し上げたい。
(西岡茂樹)

2.みなまた

 「水俣病」が公式発見されたのは1956年のことである。にもかかわらず、被害はその後も拡大し続けた。日本は高度経済成長期に入り、重化学工業の発展のためには零細漁業を切り捨て、人命を軽視し続けた。さらに悲劇的だったことは、被害者と加害者が同じ地域に暮らしていたため、激しい住民対立を引き起こしたことである。その結果、水俣の自然と社会は壊滅的に破壊された。
 その後、40年近く経過して1990年代に入り、ようやく事態は好転の兆しを見せ始める。汚染された湾は埋め立てられ、不知火海の魚の水銀値は下がり、1997年に出された安全宣言により水俣湾内の魚を外海と隔離するための仕切網も撤去された。自然界はゆっくりではあるが確実に修復されつつある。これに対して、地域社会の修復は人間の複雑な感情が絡み合い、容易には進まなかった。そこで人々が始めたのが「もやい直し」という運動である。まず、対立する市民が同じ場に集まって話し合い、お互いの状況を知ることから、もつれた糸を解きほぐそうとし始めた。合唱曲「みなまた」が誕生したのも、ちょうどそんな時期にあたる。
「自然界においても人間界においても、再生しつつある水俣を知ってほしい」との市民の願いを巨匠・柴田南雄先生が受けとめられ、純子夫人の構成に基づき、合唱曲「みなまた」は1992年11月に誕生した。
曲は3部から構成される。
第1部「海」は、水俣出身の文学者、徳富蘆花(1868 - 1927)の「自然と人生」および本居宣長の「古事記伝」をテキストとし、悲劇が起こる以前、水俣は美しい海や自然に抱かれ、人々は自然に生かされながら豊かな歴史をつくってきたことが歌われる。
 第2部「浜の唄」は、水俣の浜に伝わる4種の民謡旋律によるコラージュであり、人々の生き生きとした生活感情が歌われる。
 第3部「淵上毛銭の四つの詩」は、やはり水俣出身の詩人、淵上毛銭(1915 - 1950)の詩をテキストとしている。淵上毛銭は、結核性関節炎を患い、35才で世を去っている。長い闘病生活の中から生まれた詩は、生と死が交錯しながらも不思議な透明感と凛とした抒情に満ちている。
 このように、合唱曲「みなまた」では、水俣病そのものは直接的には歌われない。美しい海と、そこに美しく生きようとする人々の姿が歌われている。しかし、その美しさへの焦がれの対極として、水俣の悲劇が音楽の底流として流れている。そして、さらに作曲者はこう述べている。
“「水俣−川の出会うところ−」という美しい地名が、世紀の公害病と結びついて世界に知られるようになったのは、じつに不幸なことだ。しかし、水俣病は一つの地方、一つの国だけの問題ではない。全曲の結びの言葉である「明日という日がたしかに約束され」るために、われわれは何をしたらよいのか、合唱曲「みなまた」を歌われる合唱団の一人一人に考えていただきたい。”
 柴田先生の言葉どおり、その後も世界は同じ過ちを繰り返し続けている。未来を担う子供達(池田ジュニア、豊中少年少女)と共に展開されるこのシアターピースが、演奏者と聴衆の双方の心に、約束された未来をもたらすための勇気を湧き起こしてくれることを祈りたい。
(西岡茂樹)

4.蜜蜂と鯨

 田中信昭先生の指揮活動50年記念に東京混声合唱団が委嘱した曲であり、2001年12月に初演されている。
 1曲目の「鯨たちに捧げる」は、鯨が毎年、新しい歌を作曲し、それが仲間の間で流行し、新年には一斉に海の中で歌い出すという、ウソのようなホントの話を、白石かずこさんが素敵な詩に書き綴っている。特に、ザトウクジラの歌は素晴らしく、また海の中のサウンド・チャネルと呼ばれる層を利用して、何千キロと離れた鯨同士がコミュニケーションするなど、この曲のおかげで私も鯨博士の仲間入りをした気分である。
考えてみると、鯨たちは5000万年も前から海で暮らしていたのであり、人間は高々400万年くらいの歴史しかもっていないのであるから、私たちには想像もつかないような世界を持っていても何ら不思議ではなかろう。そして海の中でドカンと核爆発の実験をする野蛮な生物のことをニガニガしく思っているのに違いないのである。
曲の前半は白石かずこさんが書いた日本語の詩を、2群の合唱があたかも二匹の鯨の会話のように歌い、後半は同じ詩をRoger Pulvers氏がとてもお洒落な英語に翻訳し、それを1群の合唱になって歌うという、とても凝った曲。三善先生も「人間もちょっといいメロディーもってるじゃないか」という鯨の言葉に発奮されたのだろうか…。
2曲目の「さまよえるエストニア人」は、大国に翻弄され続け、1991年にようやく独立を勝ち取ったバルト三国の一つ、エストニアに住む詩人のヤン・カプリンスキーが主人公。蜜蜂の巣箱をいくつか持っていた広い庭園のある祖父の家で1941年に生まれたヤンは、生後5ケ月の時、ポーランド人で大学教授だった父をスターリン率いるソ連に強制連行されて失う。ついで1943年、今度はヒトラー率いるナチスドイツが西からエストニアに侵攻、広い庭園のある家を追い払われ、街の共同住宅からシェルターを逃げ回ることになる。やっと第二次大戦が終結したかと思えば、今度は東西の冷戦時代。ヤンに平安が訪れるには、ベルリンの壁が壊れる1989年以降まで、さらに四十数年も待たねばならなかった。
このヤンのことを、白石かずこさんは、ワーグナーの「さまよえるオランダ人」にひっかけて「さまよえるエストニア人」と呼んだのだった。
三善先生は、このように書いておられる。
“地球上の人間同士の共存、人間と自然の共存を念ずる21世紀への祈りを、この二編の詩に託した。詩はしなやかに立つ「祈りの樹」であり、詩語は豊かに響く「祈りの果実」だった。二つの譚詩(オード:ルビ)は9月6日に書き上がった。5日後にアメリカで同時多発テロが起きた。ひび割れた地球に、この「祈りの樹」は黙するのか。「祈りの果実」は隠れるのか。… 詩は、さまよえる人に呼びかけた。「帆をたたんじゃいけない。今こそ」。詩のなかの鯨はつぶやいた。「人間も…み捨てたモンでもないネ」”
 今、東京混声は、この曲を持って全国各地のアマチュア合唱団と共演してまわっている。曲の持つ崇高なまでの祈りと普遍性が、新しい出会いを宝のような繋がりへと変える。新生・豊混もまた、志を一にする仲間達「蜜蜂と鯨を歌う会」と「豊中ユース合唱団」との出会いの中から、21世紀の新しい展望を開いていきたい。
(西岡茂樹)