高橋悠治トークコンサート

〜うたのかぎろひ〜



高橋悠治先生との練習風景
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高橋悠治先生のプログラムノートです。

はじめに

 

このプログラムは、最近つくった「うた」のさまざまと、「うた」についてのテクストの朗読で構成される。そのテクストに書いたように、身体によって世界を知るための触手のひとつである声は、「いま・ここ」において「うた」であり、ことばはその影にすぎない、とも言えるだろう。すると、いわゆる日常空間は、現実そのものではない。深い呼吸のなかに、生きるものすべての、みちたりたしあわせがある。「うた」は、そのしずかな悦びをとりもどす道の上にあり、声はやがて静寂のなかに消えてゆく。

 

高橋悠治

 

1) 百日百夜は(初演)

 

三絃弾き語りによる。男を待つ女の唄。

 

百日百夜(ももかももよ)は ひとり寝(ぬ)と

人の夜夫(よづま)は何(

宵(よひ)より夜半(よなか)まではよけれども

暁(あかつき) 鶏(とり)鳴けば床(とこ)寂し

(梁塵秘抄336)

2) かえりみ(1996

 

「かえりみ」はタイの僧院で毎日となえられる仏典のことば:

1.わたしは衰えるもの、衰えをのがれられない。

2.わたしは病むもの、病をのがれられない。

3.わたしは死ぬもの、死をのがれられない。

4.したしいものも、たのしいことも、変わり、離れてゆく。

5.わたしはカルマをもち、カルマをひきうける。

  カルマから生まれ、カルマにつながれ、カルマに従う。

  よいこともわるいことも、どんなカルマも、ひきうけるのはわたし。

 

となえられるパーリ語は朗誦法(サラバンニャ)に準じているが、

日本語の唄の旋律は、菊岡検校作曲「夕顔」の一節、

「夕顔に結びし仮寝の夢の」からとられた。

それにともなう三絃の手によって、

これらのことばからひきだされる想念を瞑想する。

 

演奏のたびに全面的に改定され、これは第3版にあたる。

今回は三絃二重奏にオブリガート・ヴァイオリンを加えた。

 

3) 那須野襲(山田検校による)

 

山田検校が1807

る「那須野」の前半の唄と楽器のパートをそのままつかい、原曲の前弾きとうたいだ

しをけずって、序と段切り、それに合の手を新たに加えたもの。以前三絃弾き語りと

コンピュータのためにつくった曲の楽器のための版。

昨年は、三絃のパートにもとづいた版をつくったが、今回は箏により、ヴァイオリン

とピアノのほかに太棹を加えた版。

 

4) ことばのはじまりにある「うた」

 

これは、日本記号学会の機関誌に書いた160行からなるテクストの朗読に楽器をあ

しらったもの。

(テクストは省略)

 

5) 「われを頼めて来ぬ男」(初演)

 

こんどは太棹弾き語りにヴァイオリンを加える。男を呪う女の唄。

 

われを頼めて来(こ)ぬ男

角(つの)三(み)つ生(お)ひたる鬼(をに)になれ

さて 人に疎(うと)まれよ

霜 雪 霰(あられ)降る水田(みづた)の鳥となれ

さて足冷たかれ

池の浮草(うきくさ)となりねかし

と揺(ゆ)り かう揺り 揺られ歩(あり)け(梁塵秘抄339

 

6) 「寝物語」(1997)

フィリピンのパラワン島の叙事詩「クダマン」は、横たわったシャマンによるほとん

ど1音上の朗唱で、ときどき登場人物にむすびついたメロディ的なうごきで中断され

る。このような演奏法による叙事詩は、ほかにも例がある。アイヌのユカラでもこの

ようなうたいかたがあるらしい。

「寝物語」は、病気の子供のちいさい声が語る詩を、箏を弾きながらききだすこころ

みで、箏は古代から虚空に漂う声をききだすためのシャマンの楽器の一つだった。

ここでは、歌い手はあおむきに寝て、両膝を立てる。楽譜は枕元のランプで見る。

箏は座奏。譜面灯。ほかには照明なし。

歌手の楽譜は音名でしるされていて、微細な変化が線でしめされている。

箏は地、掛、楽、割、綾などの型によって自由に演奏する。それらの型は伝統的から

とられているが、楽譜全体をそのまま演奏するのではなく、さまざまな部分に注目し

、もつれた糸玉をほぐすように、そこにかくれている可能性をひきだし、他の部分と

むすびつけながら、変化してやまない線をおりなしていく。

 

寝物語     藤井貞和

 

もっと飛んで来て!

ここに来て!

ともだちのともだち

ともだちのともだちのともだち

でも、だれもこない

さるとびさんワ?

たきびで煮炊き

きりがくれさんワ?

きょオにちよオび

だれもこない

ボクワさんがいに寝ている

もオいちねんが過ぎた

すこしずつ良くなってくみたい

だれか来てくれないか

およめさん

ねずみいろのおよめさん

はぶらしや歯みがき粉

もうまゆみさんワはんとしこない

まゆみさんのくれたはぶらしヲ

こオ、手で、固ていして

(だんだん手が

不自ゆうになってくみたい)

歯ヲうごかす

きのうワ二かい、歯がちいさくくずれた

ボクワあるくんだ

寝たままで

まどいっぱいに

しろいふねがむかえに来てくれたら!

ともだちのともだちも

ともだちのともだちのともだちも

みんなで振るんだ

キンゾクバッ

キンゾクバッ

いちるいせエふ

二るいエバッ

とオるいおオのボク、去ねん

ことしつめたいペッドのうえ

せんせいワくるけど

まゆみさんワこない

だれかこないか

どれ

どろのかみさまが眼ヲさます、どろのなかから

眼ヲひらく

どろのかみさまとワ

「どろぼオ」のことです

ボクのたましいヲぬすみにくる

どれ

あのしょオねんのたましいワ

あおくなってきたから

あかくしてやろオ

まくらにぷっ

ボクワゆめヲ見る、ねむりのなかで

しろいふねが来た

まどわくこわして

かみさまのぷれぜんと

ええと、あぶらし

いや、かぶらし

いいえ、さぶらし

のん、たぶらし

ちがう、なぶらし

そオそオ、はぶらし

それから、まぶらし

やぶらし

わぶらしも

これでぜんしんヲまっさあじ

げん気になったら

しるくろオどヲ行くんだ、しろいふねで

いのうえやすしもいっしょだぞ

あしたかやまヲひとっとび

さすけがくやしがっている、地じょオで

さいぞオが泣いている、地じょオで

いのうえさん

このふねワどこエゆくのですか

さあ、さりません

しりません

すりません

せりません

そりません

捕げいせんも貨きゃくせんも

みんなともだちのともだち

ともだちのともだちのともだち

とんこオ、ろオらんヲゆき

さまるかんどヲゆき

あっヒッ

おオきいぞ、ヒッ

こんろんさんみゃく越えのほオむらん

飛ぶ

飛ぶことの意味

泣くなよ

おかあさん

らぶらしとりぶらしとるぶらしとれぶらしとろぶらし

取りまとめて、ぜんぶ上げるから

ぶらしして

きれいになってね

ボクワ

ふうとオに火ヲいれて

せんせいにおくるよ

ゆうびんきょくから

はがきにワ

たましいのいてんつうちさ

ポチワここまでついてきたけど

もオおかえりよ

ひたいにきってヲ貼って

ぽすとにねじこむから

「どぞくのゆうびんきょく」はつ

ゆうひヲとらえる

眼のズームワ

とオいうんかいエはいたつされる

歯のひとつ

小づつみのなかから

まつの実に歯がたヲのこして

ボクワ飢える

いしヲ積む

かわらのいしヲ

うまのかたち

自どオ車のかたち

しんかんせんのかたち

きりのなかからだい魔じん

モスラのおんがく

にわとりのうた

あっけっこんしき

さっそオと

まゆみちゃんだ

しろいどれすは

どれにするの?

などと言っているのがきこえるよ

たい鼓のおとワだいきらい

ふえのねワきらい

かねのこえワすこしきらい

まゆみがすき

ボクワしんろオだ

ひろいんヲだく

ひろオえんの

ひろいえんかいじょオ

きょオのひろいんワ

ふろあァで

ほろほろと

なみだしている

ふうとオもはがきもぬれている

しんろオワ

さんまんえん持ってるぞ

ポチの貯きんばこのなか

でもポチのあたまヲわらないと

そのさんまんえんヲ取りだすことができないよ

ぶちわろオか

キンゾクバッで

キンゾクバッで

いちげきのもと

ポチよ

ボクワ行きたい、しんこん旅こオに

まゆみと

しるくろオどヲ

どこまでも

ねエ、そのためにワ

さんまんえんぐらいなくちやあ

わらわれてしまうよ

ふられてしまうかなあ

ゆめのよオなはなしだ

このゆめワもオさめないのかなあ

二度とさめることのないねむりに

ボクワいるのかなあ

ふな酔いがして

いのうえやすしのすぴイちが

すこしずつ

すこしずつとオくに

かすかになってゆく

ともだちのともだち

ともだちのともだちのともだち

さよならって

ボクワゆうよ

きみがゆわなくても

ボクワゆうよ

きみにかん謝してるって

ボクワゆうよ

さよならって

せかいのともだちに

ボクワゆうよ

 

7) 「Metta Sutta)(1996)

慈経は、現在でも上座部仏教でパリッタ(護呪経)としてとなえられているもので、

仏教経典のなかではいちばん古いと思われるスッタ・ニパータと、入門者のための朗

誦文集クッダカ・パータに重複して納められている。

メッタは慈と訳されるが、対象に執着する愛よりは友情や親愛に近い、生きるものす

べてのしあわせと安全をねがう心を指す。

ここでは、パーリ語の原文と日本語訳文の同時的朗誦を構成してみた。原文の朗誦法

はスリランカでのやりかたに近く、訳文朗誦のメロディーは、東大寺大仏開眼のとき

にチャンパ(いまのベトナム)僧が奉納したという廃絶雅楽「菩薩」の一部にもとづ

いている。楽譜は、原文はアクセント記号により、訳文は天台声明にちかい記譜

をとっている。音域は男女の別なくオクターブ以内。声の音色とこまかい節回しは、

個人差を生かす。

 

1. 徳を修めた人が

   平安の境地に達するためになすべきことは:

   能あり、正直、まっすぐで、

   すなお、おだやか、ほこらず、

2. 足ることを知り、養いやすく、

   義務はすくなく、簡素な暮し、

   五官はしずまり、聡明で、

   つつましく、他人の家でむさぼらず、           

3. 識者の非難をまねく卑しい行為を

   決しておこなうな。

   すべての生きものはしあわせで、またやすらかであれ、

   みちたりてあれ。

4. 息のあるものは何であれ

   おののくものも、ゆるがぬものも、ことごとく、

   長いもの、大きなもの、

   中位のも短いのも、細かいもの粗いもの、

5. 見えるものも、見えないものも、

   遠くに住むもの、近くのもの、

   いまあるものも、生まれんとするものも、

   すべての生きものはみちたりてあれ。

6. ひとは他人をあざむくな、

   どこのだれでも他人を見下すな、

   怒りやうらみで

   たがいの不幸をもとめるな。

7. 母がわが子、ひとり子を

   いのちをかけてまもるように、

   生きものすべてに

   無量の心をはぐくめ

8. 一切世界に

   友情の無量の心をはぐくめ、

   上に、下に、また横に、

   わだかまりなく、怒りなく、うらみもなしに。

9. 立っても、歩いても、座っても、

   横になっても眠らぬ限りは、

   この心づかいをしっかりたもて。

   これは最高の生き方と言われる。

10

   戒律をまもり、ものごとを観尽くして、

   愛のむさぼりを制御した人は

   決して母胎にふたたび宿りはしない。

 

高橋悠治