あさくら讃歌京都演奏会プログラムノート


「あさくら讃歌」京都演奏会に際して

客演指揮者 西岡 茂樹

「あさくら讃歌」は、福岡県の甘木・朝倉広域市町村圏事務組合の委嘱により、郷土出身の作家、後藤明生先生がテキストを書かれ、それを三善晃先生が作曲されたものである。

初演は、1992年5月10日、地元の7つの合唱団による合同演奏であった。

「あさくら讃歌」には、甘木・朝倉の歴史、文化、自然、そしてそこに生きる人々の姿が生き生きと描かれている。

合唱曲の特徴としては、朗読と音楽が併行して進行すること、そして太鼓と笛という邦楽器が協奏を受け持っている点が挙げられよう。この見事な構成により、8編に及ぶ長大な詩が伝える「甘木・朝倉への畏敬と限りない愛情」が、余すところ無く表現されている。

  1. プロローグ/幻の卑弥呼の国は…
     邪馬台国の所在に関する論争は続いているが、甘木・朝倉の人々が強く支持するのが「邪馬台国、甘木・朝倉説」。筑紫の国と大和地方の地名が驚く程に一致しているのも、誠に不思議である。「あさくら讃歌」は、幻の卑弥呼の国を探し求める旅人の声により、幕を開ける。
  2. 樹の精霊
     歌は“あさくらは、精霊の国”で始まる。前半は、樹齢二百年から五百年といわれる「行者の杉の精霊」、後半は、樹齢千五百年を筆頭に、あちこちで見られる大木の「楠の樹の精霊」が歌われる。町の中の「お寺」と「神社」にある2本の楠の樹が、真夜中にフクロウの声でおしゃべりする、という伝説は誠に幻想的。
  3. 菜の花の迷宮
     春になると筑後川の岸辺、その他至る所に菜の花の大群生が見られる。地域の人々にとって、これはまさに「原風景」なのであろう。曲の中間部において、お婆さんからお母さんへ、そして私から子供達へと歌い継がれてきた「菜の花の国」が挿入されるが、合唱編曲の素晴らしさと相俟って、何度歌っても、胸が熱くなるりを禁じ得ない。
  4. エロスとタナトス
     古代からこの地には、歴史上の重要な人物が往来していた。まず、万葉集、小倉百人一首、新古今集に収められている彼等の歌、続いて朝倉の桂の池を舞台にした謡曲「綾鼓」の一節、そして最後には、郷土出身の文学者、宮崎湖処子の詩に皇后陛下が作曲された「おもひ子」が歌われる。古来より、人はこの地で生き、愛し、そして去っていった。しかし、それらすべての人々が生きた証の重層が、「現在」として息づいているのである。
  5. 樹の精と風と鳥たちのコロス
     曲は一転しておどけた調子になる。「…ゲナ」とは、「…だってさ」というような軽やかな話し調子に使う方言。そこで「幻の邪馬台国は甘木ゲナ」と言っておいて、すぐに「ゲナゲナ話は 嘘じゃゲナ」なんて肩すかしを食わせる。樹の精と風と鳥たちの、ユーモラスで無責任な掛け合い話し。
  6. 秋月の思い出
     甘木・朝倉の観光名所の筆頭とも言える「秋月」。古処山の懐に抱かれた静かな城下町は、戦国の時代、そして明治の初期には、武士達の無念の血が多く流れた地でもある。笛の音が、大きな起伏で、秋月の歴史を鮮やかに彩り、合唱はヴォカリーズにより、人々の情感の奥行きを描く。
  7. 「婆沙羅」哲学
     「婆沙羅」とは、“豊かさ そして ゼイタク 量だけではない 質のゼイタク”だという。甘木・朝倉のさまざまな風物が、悠然とした行進を鼓舞するような太鼓の音と共に、語り、そして歌われる。
  8. エピローグ/筑後川、メビウスの帯のような
     曲の締めくくりは、この地を育んできた「筑後川」への讃歌。そして、その悠久の流れを前にして、“千年の川が生んだ あさくらの伝統を いま 私たちは語り継いでゆこう 未来に向かって”と高らかに宣言して全曲が閉じられる。

「あさくら讃歌」を歌うに際し、春休みを利用して、学生の代表者諸君と甘木・朝倉を訪れた。現地の皆さんは、とても暖かく迎えて下さり、合唱を聴かせて頂いた後、あちこちを案内して下さった。

私個人にとっては2度目の訪問であったが、「あさくら讃歌」を愛し、そして歌い継いでいこう、という地元の方の熱意が、ますます激しく燃え上がっていたことに、大きな感銘を受けた。

地方の時代。それは中央のものを地方に移転するのではなく、地域を育んできた自然、歴史、人々の営みの結果としての「現在」を軸足として、そこから立ち上がってくるものを大切に育て上げ、実らせることであろう。

そうして確立された独自のアイデンティティこそが、相互信頼の出発点である。

“地域に固有な「言語」こそが聴き合わされる”と三善晃先生は、語っておられる。

「あさくら讃歌」は、まさに地域に固有な「言語」であり、私達は、この曲を通じて、甘木・朝倉の「現在」を知るのだが、それは同時に、私達自身を写しだす鏡の役割を果たしてくれると思う。

そして私達もまた、私達固有の言語を見つける旅に出発するのだ。

1998年6月27日(土)